「美しく装うこと」、それは平和を求めることと同じです。しかし、戦争という異常事態の中でそれを実践することは並大抵のことではありません。それを世の中に提言し、自ら実践したのが中原淳一(1913~1983)です。
中原淳一はファッションデザイナー、イラストレーター、編集者、ライフクリエイターなど実に多彩な仕事を創り上げたマルチアーティストであり、女性が本来持つ「美しく装うこと」によって「自分を表現する」意識に、戦前、戦中、戦後を通して多大な影響を及ぼし、それを育てました。
中原が生きた前半の時代は決して平和な時代ではありませんでした。中原は大正2年に生まれ、多感な少年期にはいわゆる「大正デモクラシー」「大正ロマン」といった民主主義の思潮も経験しました。しかしながらその時代は長くは続かずに徐々に軍靴の音が大きくなっていき、時局は暗部へと突き進んでいきます。
そして日本はアメリカに対しての真珠湾攻撃をもって宣戦布告をし、ついに全面戦争へ突入します。戦局が悪くなるにつれて思想統制もしかれ、「欲しがりません、勝つまでは」「進め、一億火玉だ」などのスローガンのもとにすべての日本人が戦争のために生活ばかりでなく命の犠牲をも強いられるようになったのです。
しかしながらそんな中でも中原は軍部からの圧力干渉にも耐え、女性とりわけ少女たちの暮らしに意識と自立心をもって明るく生きてもらおうと、雑誌「少女の友」に作品を発表し続けました。ますます戦況が悪くなっていく中、軍部は「モンペ姿の女性を描け」などの強い圧力をかける中、中原は「少女の友」を自ら降りることで意志を貫きます。しかし中原は「きものノ絵本」を刊行するなど、止むことなく中原流の平和を追求していきました。この時代の女性の考え方は「銃後の護り」に徹し、食べるものも食べずにひたすら自分を滅して国を護るのが当たり前という中で、中原の行動はある意味でたいへん反戦的なものでした。そんな中原も召集を受けて横須賀の部隊に配属されています。
やがて多くの尊い命の犠牲をはらったのち日本は敗戦を迎えますが、中原はすぐに雑誌「ソレイユ」(のちに「それいゆ」に改題)、と「ひまわり」を創刊し、さらに少女のための雑誌「ジュニア それいゆ」を創刊して大ブームを巻き起こします。敗戦後の女性の意識を目覚めさせたのです。ファッションのみならず女性の生き方そのものに指針を与えたその仕事は、戦後の女性の生き方に大きな影響を及ぼしました。 21世紀になった今もその影響は脈々と受け継がれています。
本展は100余点による規模で作品構成し、中原淳一の世界を展開いたします。